今では映画をつくっているのは観客です。今の映画はなかにはなにもありません。かつてはキートンとかチャップリンといったスターたちが、自分の肉体をつかって演技したり演出したりしていました。でも今は、スターであればあるほどなにもしないのです。(・・・)カットとカットを頭でつないで、「彼はこれこれのことを考えている」と考えるのは観客なのです。(・・・)仕事をするのは観客なの方なのです。観客は金を払って、しかも仕事をしているのです。(『ゴダール映画史1』ジャン・リュック・ゴダール より)
先日、学生がやるコントを見に行った。(うちの大学のサークルのものだが、結構有名らしい。)
それを見ていて思ったのだが、演劇からは、彼らのナマの吐息のようなものが聞こえる。
そこに生きている、その人という存在が嗅ぎ取れる。(友人が出演していたから、なおさらのことだったのかもしれない。)
10月28日の朝日新聞に、『肉体誇示し、CGに反逆』という記事があった。
そこには、昨今のスターの「激やせ・激太り」について書かれてあった。
肉体改造の理由は、個々の俳優にとっては「役作りのため」なのだろうが、少し俯瞰すると、肉体を使って役者たちが存在を誇示しているように見える。(朝日新聞04.10.28)上記のゴダールの話とは少しずれるが、同じ次元の話に思える。
先日シュレックを見た。
そのCGの稚拙さにはちょっと驚いたのだが、でも僕ら観客はそこに「生きた」キャラクターを見出せる。
それに共感したり、ああ、こういうことなんだな、ということが理解できる。
『げんしけん』の中で、斑目がこんなことを言っている(別に斑目じゃなくても言っているが)。
「これ(^ー^)何に見える?じゃこれ(WXYを縦書に)は?
そう!このような抽象的な記号でも人間は想像で別の物に見る。これは人間の脳に基本的に備わった機能と言っていい。
太古の昔に描かれた簡潔な線の壁画の存在を見てもそれがわかる。彼らはそこに……洞窟の壁に大草原を疾走する動物達を見たのだ!
だからつまりっ 「アニメ絵じゃ抜けねえよ」とか言ってる奴は脳に欠陥を持っているのであり、そうでなきゃカッコつけてるだけという事だ!!(江戸時代にゃ春画だってあったんだぞ。)(『げんしけん1』より)
この引用郡は、僕にとってこういう結論を導き出すためのものだ。
それは、物語に、役者という「他者」を見るか、それとも分析的に見た「自己」を見るか、という違いがあるんじゃないか、ということである。
それは役者をカリスマや神のようなものとして見るか、それとも広い意味での「自分自身」として見るか、ということかもしれない。
それを「他者」と見るならばそれは教育に繋がるし、それを「自己(の反映)」として見るならば、それは自己認識に繋がる。
前者を相対評価に繋げ、後者を絶対評価に繋げて考えてみても面白い。
人間の物語認識に関するちょっとした分析でした。
written by B&M


