早朝に目が覚めて、仕事も一段落しているし長期休業に入ったので、書き散らし。
独り言の類いですので、主義主張とかではない、ただのオープンな公開日記。
何が書いてあるのか、もしかしたらぜんぜんわからないかもしれません。
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iPhotoの写真容量がどでかくなってきたので、外付けHDに新たにライブラリ・ファイルを設けて、2重管理している。
さらに、職場のものもそうやって分けて管理しているので、職場ライブラリ+職場ライブラリ外付けHD版、ということで合計4つのiPhotoライブラリで写真を管理している。
プライベートと仕事を分けるというのは、写真の場合、正解だった。
プライベートと仕事でユーザも分けて使用しているので、切りかえにもなるし、
職場ユーザの「壁紙」は、1分ごとに変わるような仕様で、生徒達の写真にしている。
あんなこともあったなあとか、思い出すのにも役立つし、記憶力が低下してきた昨今、刷り込み効果もある。
学生なら、英単語を画像化して、刷り込みしてもいいかもしれない。
そういうのを、インプリンティングというらしい。
昔、どうやって何回もそれと出会うかということを考えたことがあった。
記憶の定着にもなるし、愛着の定着にもなる。
家族っていう枠は、何回も出会うから家族になるんだとか、書店の作家のインデックスは、ただそこにあって毎回目に触れるだけで、親近感を持たせて、いつか本を開かせるんだとか、そういうことだ。
それは、ビジネス、マーケティングの話でもあった。
僕はビジネスマンにはなりたくなかったし、ならなかったけれど。
日々の生活スタイルでも、インプリンティングは重要だ。
週1でインプリントされていくテレビ番組。
だからこそ、日々の生活で使う道具のデザインは重要。
日々それに触れ、その動作手順でそれを行うのだから。
人それぞれに、毎日の手触りがあり、毎日の思考がそこで生まれる。
言語ってのは、毎日それと触れ合うわけで、日本語という言語が持つインプリントも必ずあるはずで・・・。
どこかで語られている、そういうことについて考えることが好きだった。
・・・好きだった、過去形?
この頃はいけない、若い頃はとか、学生時代はとか、老人化している。
子どもができるとは、そういうことなのか?
写真の容量が大きくなってきたのは、1枚の写真の容量が、以前に比べて数倍になった上に、撮る被写体も、撮る枚数も増えたためだ。
ちなみに1枚の写真はどのくらい大きくなったのかということをカクニンしてみると、
10年前は100KB〜400KBくらいだったのが、
今では2MBとか3MB=2000KBとか3000KBなんである。
1枚あたり10倍!
【基礎知識】これならわかる!正しいディスクの選び方:PC Online
で、4つのライブラリで管理している写真をバックアップしておきたくなって、上の記事を読んで、ああそうか、ディスクにとっておくという初歩的なことを忘れていた、これだから現代人は、と思いたったわけである。
父世代は、せっせとディスクにバックアップをとっていたのに、我が世代は、クラウドだ。
でも、クラウドは管理している場所が見えない。
なんとも足下がおぼつかない。
個人情報も、データも、誰かに管理してもらう時代になってきたが、そういうのをアウトソーシングというのだろうか、同じようなものだろうか、誰かに託すという、信頼の時代でもあって、それはそれで、誰かにやっぱり助けてもらって生きていくことに変わりはないのかもしれない、ただ外国人にそれをやられるのはいかがなものか、日本語がわかりづらいからこそ、データの管理だけはビジネスライクにやりやすいだろうか、というかあなたの個人情報にどれほどの価値があるのか、国家ですらあなたにそんなに注目はしていない、というかどうでもいい、むしろあなたは個人情報をあけっぴろげて、注目してもらったほうが、金銭は得られるのではないか、
昔から、弱者意識というかはあって、注目されたい、みたいな意識みたいなんかを、
短編小説『我が世界のそむき』(33枚)とかに書いたりした。
今は、執筆はぜんぜんしていない。
書く必要性も見当たらない。
作家にとっては、結婚や出産は敵ということだろうか。
あるいは、成長過程で必要だった僕の文学性みたいなものが、必要ないようになったのだろうか。
あるいは、日々の忙しさとかにかまけて、忘れていってしまったのだろうか。
注目される、ということについては、放棄した小説
短編小説ブログ『にじゅうごぺすとりぃ』: #2-2 about青井優子2でも書いていたみたい。
要は、ストーカーについて書こうと思っていたのだが、それと同時に、過剰に「見られている」感を持っている、注目されたい女性についても描こうとしていたみたい。
ストーカーされてる妄想みたいな。
でも、実際にストーカー被害に遭われているみなさま、再発のない社会になることを願っているし、実害についてどうこう言いたい(言いたかった)わけではありません。あくまで、僕にも宿っている、いつでも見られたい、見ていられたい、注目されたい、評価されたい、ということについて考えたかったようなのです。
ブンガクという思考回路以外にも、数学とか、マインドマップとか、まんだらなんだらとか、まあともかく思考ツールなんつって、たくさんある。
そういうのをいっぺん全部とっぱらって、ハダカの自分で物事を考えてみる、3.11の時なんかはそうだったし、で、誰かに代わりにものを考えてもらおうと思って、検索やチャンネルをザッピングしたりした。
何はともあれ、僕たちは誰か何かのコピー&ペーストなんだ。
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「コピーしてペースト」
あるいはこうしてブログを書いていることも、僕という人間のいくぶんかの部分のコピー&ペーストを目指している。
子孫には、遺伝子のいくぶんかがコピー&ペーストされる。
そうすることが、「持続」していくひとつの手段。
ミームというのが、ジーン(遺伝子)に対する、文化的な何からしかった。
そんな本があった。
この頃、そんなことについてちょっと考えたりしている。
しょせん、誰かのコピー&ペースト。
日本語という枠は取り外せないし、自分で考えたと思ってみても、両親の、知人の、メディアの中からの取捨選択コピー&ペーストでしななかったり。
プログラムみたいな。
スマートフォンに、次々インストールしていくアプリみたいに。
ブログで何かを書きたい時、あなたも私をコピー&ペーストして、よりよい人生を、みたいに、宗教家よろしくちょっとでも思っているとき、自分は親であり、コピーされる対象であり、オリジナルである妄想できる時、少し充実感を得られる。
教師ってそういうのを仕事にしている生き物だろうか?
自分が教祖さまでありたいとは思わない。
それだけの責任も持てない。
何が正しくて何が間違っているか、というのは、実は難しい。
戦前日本のことがよく引き合いに出されるし、そうなると口をつぐんでしまう人多数だけれど、マインドコントロールって恐ろしい。
結局、個人個人が自分へのコピー&ペーストに自覚的になり、責任を持つしかない。
だから、何がコピー&ペーストされているのか、されるのか、には自覚的でありたい。
そのために、コピー&ペーストの機構というか、仕組みというか、なんかにも自覚的でありたい。
つまり、自らの学習体系というか、学習時の癖というかにも自覚的でありたい。
冒頭書いた、インプリンティングにも自覚的でありたい。
日々読む新聞、日々目にするウェブサイト、友だちの思想の癖とか、ね。
でも、そういう俯瞰的な目、冷たい冷静な目、そういうのは時に自分を苦しめる。
インテリのあの冷たい表情!
感情的になって、何も見えなくなっているようなことにも憧れる。
常に冷静で客観的であること!
子どもたちの輝いている顔!
何も知らない・・・無垢な・・・
いや、やめよう。
大人になったこと、大人になることについて、悔やんでなんかいないんだから。
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昔は「影」という人格で、自分を「客観的」に書く事で、なんらかの制度や枠を見きわめようとしていたような気もする。
人間を俯瞰できる「小説」というシステムは便利だ。
これを媒介にして会話することで、メタ認知はさらに高まる。
村上春樹氏は小説を「うなぎ」と言い、それを間にはさんで対話できる、というようなことを言ってた。
友だちと付き合いにくい10代の子どもは、イラストを描いたりしている。
そうでなくても、昨日見たテレビとか、ゲームの攻略法とか、ともかく自分とは関係ない話ばかりをする。
ケータイを持って、自分や他人についてばかりおしゃべりできる子は、何を感じているかとか、何をしたかというようなことばかりメールなんかでしゃべれる子なんかは、尊い、と思ったりもする。
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コピー&ペースト!
洗濯機についての情報。
買い替えようかと思っていまして。
今は、
・ドラム式
・縦型式
のふたつで悩むようです。
ドラム式には、「匂い」「洗剤残り」「電気代」なんかのデメリットもあるものの、「乾燥まで自動、日立最新機種などでは仕上がりもコインランドリー」みたいなものも。タオルなんかだと、そのまま使える、みたいな。ワイシャツなんかはアイロン必要だそうだけれど。
あと、うちは子どもが小さいので、ドラム式のドアは少しキケン。
子どもが入って遊んだら、ねえ。
でも、電気屋さんに聞いたら、節電と節水にも優れ、ドラム式は人気なんだとか。
あと、花粉の季節、外に干せないので、乾燥機が重要な人も多いんだとか。
現代病・・・花粉症・・・。
清潔すぎる現代人が生んだ病とも言われていますが・・・。
清潔さを目指し過ぎるなとうんことか出産とか描いてた江川達也さんですが、この頃の作品はぜんぜん読んでいない。。。
というか、マンガとかメディア時代ぜんぜん読んでいない。
ところであなたは物語中毒だろうか。
常に「ここではない、どこか」にいないと落ち着かない性格だろうか。
それとも、現実の、マテリアルの、現状だけでいい性格だろうか。
この世界はすばらしい。
この世界の、石ころや花を、ただ愛でて、生きていられるほうだろうか。
それとも、美談、泣ける話が必要だろうか。
感情的でいたい、日々感動、でいたいほうだろうか、それは疲れるだろうか。
僕はまだ決めかねているようで、それはまだ若いという証拠にもなってくれるかもしれない。
でも、この頃、漫画やドラマや小説なんかからは、学生時分に比べて、確実に、離れていっています。
目の前に、日々変化する赤ちゃんという書物があって、それをただ読むことに必死なのかもしれませんが。
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マイホームはこうして選びなさいをちびちび読んでいます。
あなたはマイホーム派?
一生賃貸派?
要は、ビッグモーターがいかがわしいCMで「マイホームを建てました」と言っているこの「夢のマイホーム」幻想は、まだ機能しているのか、ということ。(幻想、といえば、吉本隆明氏は亡くなってしまいました。)
中古物件、というのもトレンドとしてあるらしい。
・・・昨年、家を建てました。
3.11の直前、建前でした。
もちろん、3.11前と後では、家を持つか持たないかに、大きな変化があるでしょう。
僕にとっては、否が応でもマイホーム派、だって建ててしまったんだもの、ということになりました。
この潮流については、今後も注視していきたい。
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庭仕事をしても寒くない時期になってきた。
ナウシカよろしく、生ごみと土壌について試している。
蛆がわいて、蝿が誕生したりしている。
衛生的によろしくない。
いろいろ整理をつけないと。
段ボールコンポスト、プランター生ごみ処理、次は土のう袋にも手を出す。
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twitterをはじめてみて、これが即時性かあ、と思った。
でも、自分で呟くことはしない。
意味がない。
この日記も意味がないが、こうしてまとめて書く事には、少しは意味があるような気がする。
私には、日常、即時的な情報がない。
地震の時などには、必要があるかもしれないが。
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フェイスブックはまだはじめていない。
映画『ソーシャル・ネットワーク』は見た。
ザッカーバーグが天才だということや、企業立ち上げまでのすったもんだについては分かった。
映画として、あのフィンチャーが、描きたかったことは、特に感じられなかったが、シリコンバレー的な「熱」はうまく表現されていたように思う。
映画とフェイスブックは関係ないな、とも思った。
フェイスブックはまだはじめてはいないし、必要性も僕にとっては低い。
mixiも続かなかったんだもの。
なぜ、という問いについては考えている。
ネットのコミュニケーション、というか、リアルのものでもそうだが、コミュニケーション不全症候群(の意味を厳密にはよく知らないが、なんとなく、コミュニケーション下手というような意味)なのだ。
両親からしてそうだ。
で、生来コピー&ペーストを繰り返し、なんとかジェントルマンではあるのだが、根本的に、コミュニケーション不全症候群で、そんな人間が、昨今英語教育にかかるコミュニケーション教育に関わっているのが不思議でならない、ただ、コミュニケーションが下手だからこそ、コミュニケーションについて学ぶ子ども達を指導出来る、とも開き直っている今日この頃。
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iPhone4Sはほんとうにすばらしい。
ホーム画面の情報通知機能が乏しいことを除けば、申し分がない。
アプリ:「Readbility」ブラウザで読んでいた記事を、ボタン一つでiPhoneで読み継げる。Firefoxにはそんなアプリもあるみたいだが、僕はホームブラウザがSafariなので・・・。
Mountain Lion(Macの最新OS)にしたら、もっと親和性が高まるみたいだが。
アプリ:「WunderList」ToDoアプリ。これもMacBookと同期する。ただ、買い物リストとかは手でメモしたほうが便利だよな、やっぱり。そして、手で書くことの、この媒介性というもの、めんどうだけど、やったあとに残る感覚というのは、やっぱり捨ててはならない。と言いつつ、WunderListは便利。
新機能Siri:車を運転しているとき便利。
FaceTime:遠く離れた家族とも、と思うけれど、やっぱり顔を見て電話するのは恥ずかしい日本人タイプな私。メールも時に億劫だけれど。だからこそ、リアルな「イベント」は大事。「式典」でも「会食」でもいい。リアルに集って顔を合わさなければいけない状況を作るのは必要。先日、お宮参りというイベントを行いました。節分も、節句も、いろいろきちんとやっています。ただ、お墓参りだけは。。。外出がかなわないのでやってない。ごめん、おばあちゃん。
他にもいろいろ便利だが、割愛。